日本郵船 BVTL Magazine大学! 世界が見える海運ゼミナール 信濃丸の半世紀。「敵艦見ユ」から「クリスマスの奇跡」へ
公開日:2025年12月23日
更新日:2025年12月23日

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日本郵船株式会社 調査グループ グループ長
林光一郎が教えます!
ここがポイント!
信濃丸は、英国・グラスゴーの造船所で1900年4月に竣工した日本郵船の貨客船
日露戦争でバルチック艦隊を発見し、歴史的通報「敵艦見ユ」を打電
日露戦争後は台湾航路に就航し、後に鮭鱒工船(洋上の缶詰工場船)としても活躍
太平洋戦争を生き延び、終戦後は主にシベリアからの引き揚げで約5万人を輸送
朝鮮戦争では興南撤収作戦に関わり「クリスマスの奇跡」の舞台を陰で支えた
激動の近代史を駆け抜けた日本郵船・信濃丸。商船から仮装巡洋艦、工場船、そして引き揚げ船へ――半世紀超の足跡をたどります。
米国ではトランプ大統領の関税政策、そして一般メディアでは大きく取り上げられていませんが中国建造商船への罰金など、外航海運の根幹を揺るがすような情報が発信されています。こういうときは歴史を振り返ることも大切だと思います。
今回は、劇的な生涯を送った商船・信濃丸についてご紹介します。作家・司馬遼太郎の『坂の上の雲』を読んだ方は、この船が日露戦争でバルチック艦隊(ロシア帝国海軍の主力艦隊)発見の電報を打ったことをご存じでしょうし、半世紀を超える長い生涯を送ったという記述をご記憶かもしれません。ですが、信濃丸の生涯は『坂の上の雲』に書かれた以上に、はるかに劇的でした。
英国での竣工から日露戦争の「敵艦見ユ」まで
信濃丸は1900年4月、英国・グラスゴーのデビット・ウィリアム・ヘンダーソン社造船所で竣工しました。発注した日本郵船は1896年、当時の世界三大航路である欧州・米国・オーストラリア航路を同時に開設したばかりで、これらの航路に投入する大型・高速の貨客船をほぼ同型で15隻一斉に発注していました。信濃丸はその1隻でした。
信濃丸
写真提供:日本郵船歴史博物館
日本に到着した信濃丸は、まずオーストラリア航路に投入されましたが、翌1901年に臨時航海で英国に向かいます。バロー=イン=ファーネス造船所で建造中だった戦艦・三笠に、乗組員となる海軍将兵と軍需物資を送るのが目的でした。造船所で三笠と信濃丸が並んだという記録が残っています。
英国からの帰国後、信濃丸はシアトル航路に投入されます。小説家・永井荷風が1903年に米国へ渡った際に乗船したのが信濃丸でした。『あめりか物語』所収「船房夜話」には、その旅の様子が描かれています。
1904年2月、日露戦争が開戦しました。開戦直後、信濃丸は戦場となった中国東北部から引き揚げてきた日本人を、韓国の仁川から長崎へ輸送しました。その後に軍に徴用され、当初は陸軍輸送に用いられ、1904年5月の遼東半島上陸作戦に参加します。翌1905年3月には、信濃丸は海軍の仮装巡洋艦(民間船を軍艦仕様に改造し武装した艦)となり、ロシアのバルチック艦隊がいつ日本近海に来るか、どの海域に現れるかを知るため、対馬海峡の哨戒に当たりました。
1905年5月27日未明、信濃丸は五島列島沖でバルチック艦隊を発見します。艦隊の隊列の中に入り込んでしまった状況から、奇跡的に脱出することに成功した信濃丸は、通報電報「敵艦見ユ」を発信しました。この通報を最終的に受け取ったのは、かつて信濃丸が乗組員を送り届け、当時は連合艦隊の旗艦となっていた戦艦・三笠でした。対馬海峡で待機していた連合艦隊は出撃し、日本海海戦で世界の軍事史に残る完勝を収めます。この勝利は和平交渉の糸口となり、ポーツマス講和会議への道を開きました。
信濃丸の感状(表彰状)
写真提供:日本郵船歴史博物館
台湾航路・鮭鱒工船としての長い後半生
日露戦争が終わり、徴用を解かれた信濃丸は、しばらくシアトル航路に復帰した後、1910年に台湾航路へと投入先が変わります。第1次世界大戦では徴用を免れ、神戸と台湾・基隆を結ぶ航路で航海を続けました。
信濃丸 基隆初入港
写真提供:日本郵船歴史博物館
就航中、信濃丸は多くの人を運びました。1918年、第1次護法運動に敗れて上海を脱出した孫文は台湾を経由して日本に渡りました。また、日露戦争中にロシアの革命派を支援し、のちに台湾総督となった明石元二郎は、1919年に日本へ向かう航海中に病を得て門司で緊急下船し、そのまま福岡の自宅で亡くなりました。1923年の関東大震災では、神戸から救援物資を東京・芝浦港へ運んでいます。
1929年、信濃丸は売却され、水産業界へ活躍の場を移します。鮭缶・鱒缶の洋上工場である鮭鱒工船として働き始めたのです。鮭鱒工船の成立には、ポーツマス条約(1905年)で日本がロシアから獲得した極東ロシアの漁業権が関係しています。これを受けた日露漁業協約では、日本の漁業者にロシア領への上陸、宿舎や加工施設を建設する権利が認められました。
ここで登場するのが工場船です。具体的には有名な蟹工船、そして信濃丸の新しい姿となった鮭鱒工船です。これらの船は、実際に漁を行う小型漁船を従えながら漁区を移動して操業し、強力な冷蔵設備がまだ一般的でなかった当時、受け取った魚介類を船内で缶詰に加工しました。上陸権が認められていたため、補給や乗組員の交代も、近くのロシアの港で行えました。
ロシア革命(1917年)後、日露漁業協約は延長されませんでした。成立当初のソ連はオホーツク海での取り締まり能力を欠いており、日本側は従来通り操業を続けていましたが、やがて対立が激化していきます。後継の日ソ漁業協定で操業条件が厳格化されたこと、領海基準を巡って日本(3海里)とソ連(12海里)の見解が異なったことなどから、信濃丸もしばしば漁業紛争に巻き込まれました。
太平洋戦争から朝鮮戦争の「クリスマスの奇跡」へ
信濃丸
写真提供:日本郵船歴史博物館
信濃丸の生涯最後の10年は、再び苛烈な時期となりました。
1941年、太平洋戦争が始まります。船齢41年の老齢船だった信濃丸は開戦当初こそ徴用を免れ、日ソ中立条約の下で継続していた北洋漁業に従事し続けました。しかし戦況の悪化により、日本の商船の撃沈が相次ぐ中、信濃丸も工場設備を下ろして軍用輸送船として徴用されます。1943年10月には、漫画家・水木しげるをパラオからラバウルへ輸送しました。極寒のオホーツク海から灼熱の南洋へ――「船縁(※原文ママ、手摺のことか?)を握ると鉄板がポロっと取れた」という体験を書き残しています。
1945年8月15日、太平洋戦争が終結します。より高速・大型で設備の整った後輩船の多くが戦没する中で、信濃丸は驚くべきことに生き延びました。太平洋戦争を生き残った日本の商船としては、信濃丸は上位10隻に入る大きさだったといわれています。
生還後の信濃丸は、日本の降伏によって外地に取り残された人々の引き揚げに従事します。『坂の上の雲』には、小説家・大岡昇平がフィリピンから信濃丸で日本に戻ったことが記されていますが、実際には主にシベリアからの引き揚げに従事し、1950年までの5年間で合計26航海を行いました。1航海当たりの輸送人員は約2千人で、延べ5万人強を運んだ計算になります。
1950年、信濃丸は再び戦争に巻き込まれます。4月の最後の引き揚げ航海でナホトカから戻ったわずか2カ月後、同年6月25日に朝鮮戦争が勃発し、米軍の命令で朝鮮半島に向かいました。
信濃丸は朝鮮戦争序盤の激戦の一つで、韓流映画『国際市場で逢いましょう』にも描かれた興南撤収作戦に参加します。この作戦では、中国軍の攻勢に押されて撤退する国連軍に加え、北朝鮮軍を恐れて避難してきた約10万人の民間人が、海路で興南から脱出しました。韓国では「クリスマスの奇跡」として広く知られる出来事です。信濃丸は撤退作業中、荷役に従事した日本人港湾作業員約1200人の宿泊船として使用され、12月24日の最終撤退ぎりぎりまで興南港に残りました。
朝鮮戦争の初動を乗り切ると、米国から戦時標準貨物船(リバティ船)が大量に極東へ送られ、信濃丸は任務を解かれます。史料上で最後に信濃丸の名が登場するのは1951年9月1日。スクラップ解体のため川崎の岸壁に戻ってきたことが、神奈川新聞に掲載されました。最後の航海では、かつて信濃丸が資材を運び、現在は横須賀で着底保存され記念艦となっている三笠が、戦後の混乱の中で金属や木材を盗まれて荒廃した姿を目にしたかもしれません。
〈まとめ〉
信濃丸は、世界で最も劇的な生涯を送った船といえるかもしれません。歴史の劇的な一瞬に立ち会った船は他にも多くありますが、「半世紀を超える長い生涯を働き詰めで過ごし」「客船→仮装巡洋艦→客船→鮭鱒工船→軍用輸送船→引き揚げ船→軍用輸送船と役割を幾度も変え」「『敵艦見ユ』から『クリスマスの奇跡』まで、異なる立場で何度も歴史の現場に居合わせた」船は、ほとんど思い当たりません。信濃丸の生涯を振り返ると、どんな時代でも船に求められる役割があり、それを果たすことが責任であると、あらためて感じます。
最後はスクラップとなって鉄へ戻り、日本の戦後復興の礎となった信濃丸ですが、遺品は今も生きています。東京タワー横の聖アンデレ教会の聖堂天井には、信濃丸の号鐘(船鐘)が吊るされ、今も澄んだ音色を響かせています(音のソノリティ:#756「聖アンデレ教会の鐘の音」で試聴できます https://www.ntv.co.jp/oto/contents/2018/)。
また、信濃丸のサロンで使われていた椅子は、横浜の「山手資料館」とレストラン「馬車道十番館」に引き取られています。
本稿の叙述は『明治から昭和を生き抜いた船 信濃丸の知られざる生涯』(宇佐美昇三著、海文堂出版)を参照しました。インターネット上の情報には不足や誤りも少なくないため、信濃丸の生涯に関心を持たれた方は、ぜひ原典をご覧ください。






